『ワイルド・スワン』

北朝鮮はるかなり』を読んでいるのだが,これ,昔読んだ『ワイルド・スワン』をすごく彷彿とさせる。東アジアで,今からは信じられないほどの女性蔑視がはびこっていた,20世紀初頭からの家族史。共産主義に翻弄される人生。

『ワイルド・スワン』

ワイルド・スワン(上)

ワイルド・スワン(上)

ワイルド・スワン(下)

ワイルド・スワン(下)

 著者,張戎は,1952年生れ。文革をくぐり抜け,英語を学んでロンドンに留学。自らの体験と母の回想をもとに,祖母,母,自分の三代の女が生きた,激動の20世紀中国を描いている。
 古い中国での人々の生活は本当に苛酷であった。特に女性は虐げられている。祖先崇拝が根強く,女性は名前も与えられないほど軽視されるのが普通だった。纏足という風習があり,女の子は幼児のころから足を布できつく縛って小さいままにする。足は小さければ小さいほどよく,10センチほどであれば申し分ない。歩くのに支障がないはずはないが,纏足の女性が不器用によちよち歩く姿が男性に好まれた。著者の祖母の時代はまだこの風習が残っており,,祖母も激痛に耐えて小さい足を獲得した。幼い我が子が痛がる様子に纏足をあきらめる親もいたが,大きい足では嫁入りに差し支える。結婚に際して恥をかき,なぜ心を鬼にして纏足してくれなかったの,と親を恨む娘もいた。
 著者の祖母は軍閥時代にある将軍に見初められ,十代でその妾になる。警察で働く祖母の父が,二人の出会いをうまく演出したのだ。祖母には一軒の家が与えられるが,,正妻の他に大勢の妾を所有する将軍は,結婚式以来六年も帰ってこない。その間祖母は軟禁状態におかれ,独り寝の不幸をかこつ。六年後,突然戻った将軍との間に娘が生れる。著者の母であった。
 将軍の死後,正妻に娘を取り上げられそうになるが,幸運にも取り戻し,祖母は錦州で老医者の後妻として暮らす。錦州が位置する中国東北部は,軍閥割拠のあと,満洲国の支配をうけた。日本の敗戦でロシア軍がなだれ込む。錦州でも掠奪があり,抵抗する市民は殺戮された。その後も,支配者は次々と交替。特に,国民党軍と共産党軍は激しい市街戦を演じた。人命が限りなく軽い,そんな殺伐とした中で母は育つ。粗暴な国民党の兵隊にくらべ,共産党兵士は礼儀正しく規律があった。学生時代の母は共産党シンパになり,積極的にその活動に協力する。,そんな中で知り合った共産党ゲリラ隊長の父と結婚,間もなく,父の故郷四川省へ向かう。
 その15年ほど前,1934年から一年かけて,毛沢東率いる革命軍は,国民党の攻撃を避け抗日を行なうため,江西省瑞金から陝西省延安まで北上した。世に言う長征である。父は,そのころからの共産党員で,いまや幹部であった。ただ潔癖な彼は,自分にも家族にも厳しかった。母との帰郷途上,母は体調を崩すが,父は自分の乗る自動車に乗せてやることもなかった。党幹部でなければ乗れない規則なのだ。,身内びいきは中国の旧弊の筆頭である。過去の政権の腐敗・崩潰もすべてこれら古い中国の悪徳に淵源する。すべての人民は平等に扱わなくてはならない。共産主義こそ人類の理想である。父の党への忠誠心は相当なものだった。長時間の苛酷な移動の中,母は初めての子を流産した。
 四川省で母も党の仕事を得て,使命に励む。合間に子供が四人でき,二番目が著者であった。党員たるもの起きている時間はことごとく党務に捧げることを要求され,子供達は託児所で育つ。のちに満洲から移ってきた祖母も面倒をみてくれた。
 著者が幼い頃の共産党は様々な模索を続けた。かつて国民党や日帝を支持した者や,農村の地主などの敵対階級は,真っ先に弾圧されていたが,それが落ち着くと反右派闘争が始まる。「百花斉放・百家争鳴」というかりそめの言論の自由化が行なわれ,炙り出された批判的文化人が右派分子として弾圧されていった。職場内でも告発が強制され(糾弾すべき人数のノルマがあった),数々の冤罪を生んだが,それと引き替えに毛沢東体制は強化された。そして50年代末の大躍進。小規模で無意味な土法炉での鉄鋼生産に,農村・都市のマンパワーがことごとく割かれ,ソ連の支援引揚や天災も重なって,食糧が不足,数千万が餓死した。
 そして著者が中学生のとき,ついに,文革が始まり,著者も紅衛兵となる毛沢東を崇拝する学生や労働者が,教師や党幹部,知識人を吊し上げ,伝統文化を破壊した。エネルギーに溢れ,分別のない若者が,理想社会を目指すというスローガンに煽られて暴走した。中央幹部では,劉少奇訒小平などの,実権派が,資本主義の道を歩む修正主義の「走資派」と名指しされて失脚毛沢東は,大躍進の失敗などで失われつつあった権力を再び確保するために文革を仕掛けたのだった。彼は自分が神格化されていたことを最大限利用した。党組織を破壊することもいとわなかった。忠実な党幹部だった著者の両親も迫害される。この,混乱に乗じて私怨を晴らす者も大勢いた。暴力と狂気が支配する状況に著者は嫌悪感を抱くが,そんな感情を抱く自分の方が間違っているのだと信じ込む。この破壊は理想のためなのだ。当時の筆者には,毛沢東を疑うことなど考えられなかった。
 やがて著者は農村に下放される。,人々の現実を見て,文革の間違いがおぼろげながら見えてきた。当局は,若者を見下していた。断片的な事実から政治の現状を認識し,批判的にとらえることなどできないと考えて,「革命精神を農村から学べ」と若者を下放したのだった。しかし,著者の周りにも疑問を感じる若者は少なくなかった。そして76年,ようやく文革の嵐は過ぎ去る。毛沢東が死んだのだ。
 著者はロンドンへの留学が決まり,祖国を後にする。彼女には,そのときまで,毛沢東を全否定することはできなかった文革の責任は江青をはじめとする中央文革委員会の四人組にある。中国の公式見解もそうである。建国の父毛沢東の肖像は今も天安門広場を見渡している。