村上春樹

旧ブログから再録(2009.9.17)
 この頃,村上春樹を読むようになった。といっても『1Q84』ではなく,もっとずっと昔に書かれたものを文庫で読む。どれも20年以上前の作品だ。学生時代に彼のノンフィクション『アンダーグラウンド』を読んだが,たいした印象は残っていなかった。もちろん,地下鉄サリン事件自体は衝撃だった。何しろあれは大学入学直前,初めて通うことになる東京で起きた惨事だった。
 村上作品にははじめ悪い印象をいだいた。今年になって『ノルウェイの森』を読んだときだ。来年映画化とかで,妻が読み始めたのをパラパラ眺めてみた。頓智問答のような会話,翻訳のような文体。描かれる若者は,どこか陰があり,酒を飲み,煙草を吸い,女の子と寝てばかり。やたらに人が自殺する。どれも気に入らない。ありえない。
 言語学に興味があって,二年ほど前からよく金川欣二のページを見ていた。きっかけは彼の著書『おいしい日本語』を読んだことだ。言語学者の彼は,ネット上で長きにわたって文章を公開している。一つの文章がものすごく長く,かなり読みにくいがはまるとおもしろい。子育ての文章まであってなかなかいいことを言っている。
 その彼が村上の文章を頻繁に引用する。村上好きらしい。言語学者をうならせる文章の書き手,ということで,機会があれば読んでみるか,と思っていたのだが,『ノルウェイの森』の世界には全く入り込めない。代表作がこれじゃあほかの作品もダメだな,と思う。
 そのころから内田樹を読むようになる。フランス現代思想に造詣が深い評論家?だそうで,全共闘世代。多くの著書をものし,社会問題に対して,世間の常識とは違った角度から発言をしている。どんなテーマでも取り上げるので,貧弱な基礎知識で無責任な放言を繰り返しているだけ,という批判も多い。だが物事は様々な視点で眺めなくてはならない。その材料を提供してくれるこういう人の存在は有意義だ。
 その内田も村上を絶賛している。ほとんど信者である。ほかの作品もダメかと思ったけど,それならそのうちまた読んでみるか。というところに,丁度妻が『ダンス・ダンス・ダンス』を借りてきた。読んでみる。うん,『ノルウェイの森』よりかなりましだ。妻は「雪かき仕事」という言葉が気に入った。悪くない表現だ。でも『高度資本主義社会』というのは妙な日本語だ。それに,羊男とはいったい何者だ?羊的思念??ともあれ『ノルウェイの森』よりはずっと良かった。
ダンス・ダンス・ダンス』はそれ以前の三部作の続編だという。主人公の「僕」が四作品を通じて共通し,70年代を含む十数年間が順に舞台となる。ということで,デビュー作『風の歌を聞け』を読み,それから一つ飛ばして『羊をめぐる冒険』を読んだ。『ノルウェイの森』を読んだとき,全然おもしろくないよね,ありえないよまったく,と妻に感想をもらしたら,これはファンタジーなんだから,とたしなめられた。彼女の方がだいぶ大人だ。これはムラカミワールドなんだから。『羊をめぐる冒険』でよくわかった。
 はじめは鼻についた比喩表現も,何冊か読むうちにすっと入ってくるようになった。人名が不自然なほど出てこない文章にも違和感が薄れた。本を読むことはあらすじをつかむことだと思っていたが,まるで間違っていた。表現を楽しみ,描写を楽しむのだ。夜,ガールフレンドが部屋に来る。会話があって,二人でソーセージを食べる。僕は三本,彼女は二本。二つのグラスに缶ビールを分ける。描かれるそういう些細な状況に,人は共感する。こういう情景って20年やそこらでは変わらない。
 作品には,村上という作家の思想が溢れている。内田によれば,村上作品のテーマは,世の中にはなんだかよく分からないが邪悪で巨大なものがいて,人々はそれに翻弄されながらも生きていく,ということらしい。それでも社会がどうにかやっていけるのは,誰もやりたがらないが誰かがやらなきゃ皆が困る「雪かき」のような仕事を,黙々とやってくれる無数の人々がいることだ。なるほど,そんなものかな。小説の中ですべての出来事がすっきりつながるわけではないのも,世界にきちんとした意味などないことを表している。人間は何事にも意味づけをしないと気がすまない動物だ。自分に降りかかった出来事が無意味であることに耐えられず,オカルトに走る人は多い。本当は,世の中に答えなんてないし,人生にゴールはないのだ。生きるのに目的なんかない。皆ただただ生きて,その過程でささやかな幸せを見つけていく。
 作品にちりばめられた寓意を発見するのも楽しい。文章の懐が深いから,いろいろな読み方ができる。作者がまったく意図しなかった意味でも,読者は作品から読み取ることができる。山崎豊子吉村昭のように,厖大な資料を読み込み,書斎を出て多くの取材をして,その結果を作品の中で十二分に生かす小説家こそ,尊敬に値すると思っていた。頭の中の妄想でさらさら書ける小説なんか何だ。これは随分と一面的な見方だった。
 一昨日,『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終えた。さて,次は何を読もう。