「行なう」か「行う」か?

旧ブログ再録(2008.4.25)

 以前同僚と、「行なう」と「行う」のどちらが正しいかについて議論した。彼は学校では「行う」と習った、「行なう」は間違いでは?と言う。結局はどちらもよく見かけるから、どっちでもいいんじゃない?ということになったが、送りがなというのはなかなか面倒である。
 国は「送り仮名の付け方」(以下「付け方」)として、現代の国語を書き表す場合の送り仮名のつけ方のよりどころを示している。これは昭和四十八年に出された内閣告示で、国語政策の制限的な性格が緩んできたころのもの。「科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」と断ってはいるのだが、学校教育は当然これに基づいており、事実上これが「正しい送りがな」と考えられている。
 「付け方」では、品詞など語の性質毎に、送りがなの原則である「本則」を定めた。しかし、本則とは異なる送りかたをする「例外」や、本則と異なる送りかたでもよしとする「許容」が多く、一貫性に欠け分かりにくい。例えば、「活用のある語は,活用語尾を送る。」という本則があるが、これに対して「活用語尾の前に「か」,「やか」,「らか」を含む形容動詞は,その音節から送る。」等複数の例外がある。「いきどおる」などは「本則」によって「憤る」だが、「おだやかだ」は「例外」によって「穏やかだ」となる。こんな感じで本則が六つくらいあり、それぞれにいくつも例外、許容がある。非常にややこしい。
 この「付け方」を理解しさえすれば、義務教育で習う送りがなは全てマスターできる。だが実際には、学校では送りがなを「付け方」に沿って学習するのではなく、個々の漢字を学ぶときにいちいち諳記している。例外や許容が多すぎて、「付け方」は理解しにくいためだろう。許容に関しても、迷へる子羊小中学生に「どっちでもいいよ」と教えるのはまず無理だ。
 問題の「おこなう」は本則により「行う」だが、「付け方」では「許容」として「行なう」もあげられている。要するに、「行う」でも「行なう」でもどちらでもよい。もっとも後者は「許容」なのだから、当局は「行う」の方が望ましいと考えている。だからといって「行なう」を間違いとはしない、ということだ。日本語変換ソフトを見ると、ATOK標準辞書では「行う」だけしか出ない。Microsoft IMEでは両方出せるようだ。
 本来漢字は外国語を書き表すものだったのだが、日本人はこれを意味の対応する和語と結びつけることに成功した。ただ、一つの漢字が必ずしも一つの和語に対応するわけではないし、日本語は中国語のような孤立語ではなく、助詞が後置され用言の形が変わる膠着語である。そこで、漢字をどう訓読みするか確定させるために送りがなをしるすようになった。そういう便宜的なものだから、送りがなは読みの確定に必要十分な長さにすることが望ましい
 「生」という漢字には「いかす」「いきる」「いける」「うむ」「うまれる」「おう(生いたち)」「はえる」「はやす」「なま」などさまざまな訓が宛てられている。そこで「生かす」「生きる」「生ける」「生む」「生まれる」「生う」「生える」「生やす」等と送り分けて、どう読ませるか区別するのである。「生る」では「いきる」「いける」「うまれる」「はえる」のどれだかわからない。「生す」では「いかす」のか「はやす」のかわからない。
 何通りもの訓読みがない漢字でも、活用によって語尾が変化する場合、その変化形を示す必要がある。そこで「かく」と「かかない」を区別するのに「書く」「書かない」と送り分ける。区別のためだけならば、「書く」「書ない」でもいいわけだが、活用形の間のバランスを考慮して、次の原則が導入された。「活用語尾を送る」という、明治からある原則である。どう訓ずるか区別すること、活用語尾を送ること、そしてその範囲で送りがなを必要最小限にすること、この三つが送りがなの根本思想だ。
 「おこなう」の活用語尾は「う」。「行う」と送れば他の訓「いく」との区別も明瞭だ。そうすると、「付け方」のとおり「行う」が適当と思われる。なぜ長たらしい「行なう」を許容する必要があるのか?
 それは「おこなった」と「いった」の区別をつけるためだろう。送りがなで区別しようとすると、「行なった」「行った」とするしかない。それで「行なう」と送ることにも一理あるというわけだ。事実、「付け方」の前身である「送りがなのつけ方」(昭和三十四年内閣告示、以下「つけ方」)は、「行なう」のみを挙げていた。
 区別を重視したのが過去の「つけ方」、短く送ることを重視したのが現行の「付け方」。「おこなう」以外にも同様の傾向が見られる。これをみても「正しい送りがな」は幻想にすぎないことがわかる。文脈から読み方が決まるなら、あえて送りがなで区別することはないし、ふりがなをつけたっていい。何となれば漢字を使わずかながきにしてもいい。現在形と過去形で、「行う」「行なった」を混ぜて使うのも別に構わないと思う。送りがなに法則性を付与するのに無理があることは、「つけ方」や「付け方」の複雑さ加減をみても明らかだ。
 「付け方」に強制力はないのだが、多くの人の頭に「正しい送りがな」という強迫観念がある。窮屈なことだ。構わずもっと自由にやればいい。ふりがなを使って常用漢字表にない読ませ方、送り方をする文章も、味があっていいものだ。
 国語政策の話だったが、めっきり手書きで文章を書かなくなった昨今、送りがなのデファクトスタンダードはむしろ変換ソフトが握っている感がある。変換キーを押して出てきた表記をついついそのまま使ってしまう。効率化と称して規格化が進み、知らず知らずのうちに皆の表記が画一化する。それで表現の幅が狭まってしまうのはいかにもつまらない。
 ATOKでも送り仮名の設定ができるようだ。
 デフォルトは「本則」となっていて,おそらく「付け方」に沿ったもの。「本則」といっても「付け方」の「本則」という意味ではなくて,「付け方」の「本則+例外」なのだろう。「許容」は変換候補に出てこない。だから「行なう」が出なかった。
 デフォルトの「本則」のほか,「省く」,「送る」,「全て」があって,好きなのを選べるようになっている。Microsoft IMEではデフォルトが「全て」にあたるのかな。