みずいろピンク

過去ブログ記事[2008.09.26]を再録。
 こんな問いかけで始まるうたがある。「♪どんないろ〜が好き?」
「ピンクー!」娘の返事は必ずこれ。しかも、問いかけに続いてすかさず答える。
 上の娘はピンクが大好きだ。誰の影響なのか分からないが、いつのまにかそうなっていた。特にピンク色の服を重点的に与えていたわけでもないのだけれど。女の子の本能?…なんて言うとおこられるかな。「進歩的」考え方によれば、男の子だから…、女の子だから…、という台詞は御法度のようだから。でも事実好きなんだから仕方がない。
 一歳のころはそうでもなかったのだが、今ではピンクの服が多くなった。買物で本人が「これがいい!」と選ぶから自然そうなる。朝の着替えでも、ピンクでないと機嫌を損ねる日があって、ときどきシャツもズボンもピンクになる。自転車用のヘルメットとくつもピンクだから、そのいでたちはさながら黒ずくめの男ならぬ「ピンクずくめの女」である。どちらもちょっと怪しい。「全身ピンク〜」とか言って本人は喜んでいるが。
 ちなみに彼女のヘルメットは、当初赤かった。下の娘の通園用にピンクのヘルメットを買ったのだが、それをいつの間にか我が物にしている。妹はいまのところ親が負ぶい紐で負ぶってチャリ通なので、ヘルメットを使用していないのだ。しかし、今後使用するようになったところで、姉がピンクのままで、妹が赤、となるのは間違いなかろう。既成事実って恐ろしい。
 どれほどピンクが好きかというと、こんな感じである。ある朝、妹がピンクの服に着替えたのを見て、自分もピンクが良いと言うので、ピンクの服を着せた。ところが彼女、「これホントのピンクじゃない!」とべそをかいてしまった。何かと思ったらピンクはピンクでも、ピンクと白のしましま模様だったのがいけなかった。しましまピンクは本当のピンクじゃないのかあ。なるほどね。ピンクについては本物志向である。
 そんな彼女によると、「みずいろピンク」とは薄いピンクのことらしい。薄い青のことを水色というのを知って、色が薄いことを「みずいろ」というのだと思ったのだろう。僅か二歳にして極めて妥当なアナロジー!言語獲得途上だからこその秀逸な表現力!スバラシイ。子育ての喜びをひとしお感じてしまう。エスキモーイヌイットは雪について十を超える単語をもつというが、彼女はピンクについて何通りもの表現をもつ。言葉は、使用する者や社会が重要と考える概念を適切に区別できるように形づくられる。ピンクに関する彼女の言語使用はそれを体現している。
 もっとも、言葉は他人と通じなければ意味をもたない。「みずいろピンク」を理解し使用する人が他にいなければ、その表現も次第に使われなくなる。言葉は社会的なものであり、彼女の用いる多様な表現のほとんどは社会の圧力によって淘汰されてゆく。社会とはもちろん日本全体だけをいうのではなく、内部での情報交換が外部とくらべて密であればどんな集団でもよい。種々の業界内、文化を共有する同世代、地域、仲良しグループ、もちろん家庭も含まれる。どの部分社会でも隠語、ジャーゴン符牒を用いて、コミュニケーションを外部と差別化・効率化する。小さい社会では、みなまで言わずとも阿吽の呼吸、以心伝心、ツーカーでの情報交換も可能になってくる。そんなわけで、言葉は、最低で二人いれば社会的に成立つ。しかし、一人ではどうしたって維持することができない。
 「みずいろピンク」の使用者は一人なのだろう。いい線いっているのに、もったいないことだ。それもあって、せめてここに記しておく。彼女に見られるように、言語獲得途上では、他人と通じるか否か格別検討することなく自由な表現がなされる。多くの幼児によって、今までに星の数ほどの素晴らしい表現が案出されてきたことだろう。そのほとんどは書き留められることもなく消えてゆくが、もっと大きくなれば、仲間うちで新表現をはやらせて、ある程度安定した運用を実現することもあるだろう。まあ言葉など、使ってなんぼのもの。いいなあと思ってうやうやしく保存するものでもない。文学ってのはそれをやるんだけど。
 最後に、娘流「ピンク」の妙な用法を紹介しよう。ある朝私が娘と家を出るとき、「ママ、戸締りよろしく」と頼んだら、娘は何を思ったか「とじまりピンクがいい!」と言いだした。以来「ピンクのとじまりよろしくね」などと言うようになった。ピンクには造詣が深くても、戸締りについてはまだまだよく知らないようだ。