10月の読書メモ(医療・薬)

感染症は実在しない―構造構成的感染症学

感染症は実在しない―構造構成的感染症学

 池田清彦内田樹のファンである医師による,病気の実在を否定する本。…といっても別に冷笑的でも無意味な不可知論でもなく,結構有益だった。
 病気が実在しない,というのは,病気は「もの」でなく現象,すなわち「こと」にすぎない,ということ。病気と健康の切り分けは,医師や社会によってかなり恣意的に行なわれており,病気と元気の境界は科学的に確固としたものではまったくない
 著者はまず結核の例を挙げている。昔は結核とは症状がバッチリ出て,苦しくていかにも病人という状態だった(労咳)。でも結核菌が発見されて,検査によってそれが検出されるようになると,風邪くらいの軽い症状の患者も「結核患者」ということになってしまった。さらに自覚症状がまったくなくて,結核菌も検出されない,そういう場合でも,免疫反応を調べることにより,結核菌がいるらしいと推測されるケースも出てきた。これは潜伏結核と名づけられ,アメリカではこれを治療の対象にして結核撲滅を図ってきた。結核菌が検出できなくても結核とは。
 それにどんな検査も,決して確実ではない。本来陽性のものを陽性と判別できる感度をとっても,陰性のものを陰性と判別できる特異度をとっても,絶対に100%にはならない。「本来陽性である」,「本来陰性である」ということも絶対に分からないから,感度も特異度も正しい値は分からない
 畢竟,世の中に「本当の病気」なんて存在せず,皆が「病気と呼びましょう」と合意すればそれが病気になる。結核に限らずインフルエンザも,感染症に限らずメタボも癌も,糖尿病も鬱病も,脳死だって,どれも社会的合意に基づいて,「病気」であるとか「人の死」であるとされるのである。
 それで問題は,「病気」かどうかの判断基準が国によってまちまちだったり,「病気」とされたときに即「治療」という選択がされがちなこと(特に日本)。世の中にゼロリスクがない,というのは今回の原発事故でも散々言われているが,震災前のこの本も口を酸っぱくして述べている。
 治療をするにもリスクがある。副作用や通院の負担など。だから病気の程度によっては,治療をしないという選択肢もあるのだが,「みつかったのなら治したい」とばかりに治療に突き進むケースが多い。詳細な検査によって,ごく初期の段階で癌細胞が見つかったとして,それを放置しても,癌は一向に大きくならず何も起こらない,ということもある。でも癌細胞が見つかったら怖いので,治療が選択されることが多い。病気が実在するという勘違いのため,それを除去しなくてはならないと誤解する。
 検査もリスクゼロではない。レントゲンを取れば被曝するし,もっと詳細にCTを撮れば被曝量も多い。採血も痛い。それを押して検査をするという選択をするのは,問診触診聴診等で医師が検査のメリットがデメリットを超えると判断した場合。軽いインフルエンザなどのように,検査する前に治療が不要と判断すれば,あえて検査を行なわないということもできる。検査してしまって,陽性反応が出て「インフルエンザ」と診断がついてしまうと,治療をしなくてはならなくなるから。その治療をしても,5日で治るのが4日で治るという程度。
 新薬の臨床試験の話も面白い。臨床試験は人体実験。大規模な臨床試験,それだけサンプルを集めないと有意な差が検出できない,効能の薄い医薬であることの証拠。そんな臨床試験,被験者には過度の期待を持たせずに倫理的に行なわなくてはならない。試験の内容,条件を患者はすべて知らされなければならないし,参加は完全に自由意思に基づき,途中撤退も自由。副作用が出たら,それに対する治療を受ける権利がある。そういう条件を満たしたうえでないと,人体実験たる臨床試験は到底許されない。
 実在しない病気。では医療行為とは何だろう。それは,個人個人の価値観と交換する為に行なわれるという。患者の価値観は人それぞれ。長寿に価値を見出す人もいれば,短くても,痛みに苦しまない穏やかな日々に価値を見出す人もいる。飲酒や喫煙に重きを置く人もいる。
そういう人々の価値観を,医師は尊重して,治療行為を提案し,施していく。それがあるべき姿だという。自分のことでも患者はうまく考えられないかもしれない。リスクとベネフィットを比較して,その人の価値観にあった治療を医師と患者で見つけていく。医師はアドバイザー。
 ただ,現状はそうでもない。医師の方で「この病気にはこの治療」ということでお仕着せの医療をしてしまうことがよくある。多くの医師は病気が本質的に恣意的であることを認識していない。曖昧な医療の中で医師は日々決断していかなければならず,問題の先送りはできない。

〈麻薬〉のすべて (講談社現代新書)

〈麻薬〉のすべて (講談社現代新書)

 人類が科学によって生み出し,人類存続の危機に関わる「ヤク」と「カク」。核の方は世上散々議論?されていて少々食傷気味なので,薬について知ってみる。化学構造式なしにすっきり読める良い本です。
 アヘン,モルヒネ,コカイン,ヘロイン,LSD,MDMA覚醒剤大麻など,「麻薬」と括られる薬物は多いが,法規制などかなり錯綜していて煩雑。著者は麻薬の定義として,「強い向精神活性を有するがゆえに重篤な社会問題を引き起こす懸念のある薬物」を提唱(p.24)。本来麻薬は「麻酔性のある薬物」を必要条件とするが,LSD,MDMA覚醒剤大麻などは麻酔性がないそう。日本では,麻薬及び向精神薬取締法大麻取締法,あへん法,覚せい剤取締法の四つの法律で規制が行なわれ,それらの境界は曖昧な面がある。歴史的経緯も大きく影響している。
 あへん(ケシ)や大麻など,初期に発見された麻薬は,生物が作りだした物質。なぜ人間の脳に作用する化合物を生物が作り出すのか,それはまさに偶然としか言えないそうだ。生物が生き抜く上で進化し,多様性を獲得することで,一部の植物が人にとっての麻薬を作りだすようになった。
 ケシという植物からはアヘンがとれる。それを精製して有効物質として取り出したものがモルヒネ,さらにそれをアセチル化するとヘロインが得られる。モルヒネは医療用に多用されていて,インドがそれ用のケシの大産地。だが違法栽培も広く行なわれ,闇で出回っている。モルヒネは全化学合成も可能だが,ケシから作る方が簡単。ヘロインは,鎮痛作用がより強いが,依存性が非常に高いため医療には用いられていない。アセチル化などの化学修飾は,構造解析等のために行なわれる有機合成化学の常道で,より危険な薬物が得られることも多い。まさにパンドラの函…。
 コカインは,南米に野生するコカノキの葉から単離されるアルカロイド。コカコーラにも昔は入っていたらしい。モルヒネやヘロインはダウナー系の薬物だが,コカインは覚醒剤と同様のアッパー系。精神的依存性は高く,耐性(摂取量がどんどん増える)もあるので危険。
 LSDは高等植物由来ではなく,微生物の麦角由来のアルカロイドに,化学操作を加えて得る(半化学合成)。その本質は幻覚剤で,麻酔作用はない。大麻やシンナー,メスカリン,サイロシビン,ジメチルトリプタミンも幻覚剤。
 最初に世に出た覚醒剤メタンフェタミン。これは漢薬「麻黄」の主成分エフェドリンから19世紀末に作りだされた。麻黄の化学成分研究は日本で行なわれたため,覚醒剤は日本生れの薬物。メタンフェタミンヒロポンとして軍用に用いられ,戦後の物資放出で大量に出回って社会問題化した。もう一つの覚醒剤アンフェタミンは,メタンフェタミンの化学構造を参考に化学合成された物質。これらが規制されると,その一部の化学構造を変化させ,別物に見える化合物が作られる。デザイナーズドラッグMDMAやMDA,MDEAである。MDMAは押尾裁判で話題になった。
 大麻は一般の植物のアサである。アサにはTHCという成分が入っていて,これが精神作用をもたらすので栽培は規制されている。日本では古くから繊維や種子が活用されていたのだが,独自にTHCの作用を利用する用途には用いられなかった。日本のアサのTHC含量が少ないこともあったが,アサは一属一種であり,THC含量の多いインド麻と別種というわけではない。アサの雌花の樹脂からは,THCの多いハシュシュ(暗殺[アサシン]の語源)が得られ,葉からはマリファナが得られる。マリファナの使用はパーティーとして行なわれる傾向があるのは他の麻薬と異なる。
 酒や煙草など,人類は長い歴史の中で,食物や医薬品のほかに,嗜好品として楽しむものも求めてきた。ところが,大麻やアヘンなど,作用が凄まじいものまで見つけてしまい,自制を求められるようになった。医療に有効に使えるものも多く,原子力と同様,上手に扱っていかなくてはいけない。

基礎から学ぶ楽しい疫学

基礎から学ぶ楽しい疫学

 疫学の教科書。疫学って「人間集団における健康状態とそれに関連する要因の分布を明らかにする学問」。19世紀半ばのロンドンにおけるコレラの研究が端緒。
 病気の真の原因がわからなくても,関連する要因を特定することで,病気の予防につなげることができる。コレラ菌の発見はしばらく後だったが,ロンドンのコレラでは,水道との関連が特定された。このように疫学はもともと感染症の頻度観察から始まった。
 20世紀に入ってからの疾病構造の変化(急性感染症から徐々に慢性疾患にシフト)にともない,疫学の対象疾患も,癌や循環器疾患などに広がってきた。そうすると潜伏期間が問題となってくる。それに対応する為に疫学の方法論も多様化してくる。
 疫学の研究方法には,単に疾病頻度を明らかにする記述疫学や,集団間の曝露と疾病頻度の関係を比較する生態学的研究,個人の曝露と疾病発生の評価を同時に行なう横断研究,それに主力であるコホート研究,症例対象研究,介入研究などがある。
「曝露」とは疾病以前に存在する何らかの状態を指す疫学用語。喫煙,酒量などを含む生活習慣や,性別や年齢など,何でも曝露と呼ぶ。記述疫学を除けば,曝露と疾病発生の関係を統計学的に見極めることが研究内容になる。その目的は,疾病予防,寿命延長,QOLの向上だ。
 介入研究以外は,曝露を研究者がコントロールせず,自由にまかせるが,介入研究では,研究者が曝露群と非曝露群に分けて,その後の経過を観察する。適切な曝露の割り付けによって,交絡因子を排除することができる強力な研究方法であるが,倫理的配慮も必要になってくる。例えば実施できる介入は,予防的な曝露しか認められない。また,自由参加で,対象者への十分な説明が求められる。対象が人間なので,研究計画に従わないプロトコル破りの問題もある。
 疫学の分析には統計学を用いるが,データをとる範囲の制約も大きいため,偏りと交絡を適切に扱うことが重要になる。偶然誤差を小さくするには標本数を大きくとるしかないが,選択の偏り,情報の偏りといった系統誤差は,適切な研究計画によって減らすことができる。
 この他,疫学の集大成としてのスクリーニング検査についてや,人間集団でなく患者集団についての疫学である臨床疫学,疫学に必要な統計の基礎,疫学の倫理や応用についてもまとめられている。教科書なのでやはりとっつきにくいが雰囲気は伝わってきた。