9月の読書メモ(社会・思想)

社会主義の誤解を解く (光文社新書)

社会主義の誤解を解く (光文社新書)


 日本では,「冷戦終了によって社会主義は終った」みたいな誤解があるが,欧州などでは社会主義は健在。19世紀中ごろから20世紀中ごろまでの社会主義の歴史を見ながら,誤解を正し,誤解の原因を探っていく。
 筆者は社会主義を「生産活動が私的なカネ儲けの手段と化さないよう、それを理性的な意思決定の下に統制すること」と説く。私有を制限するのは,あくまでも「生産手段」についてであって,「生活手段」ではないとこがポイント。ポルポト政権による惨劇などはここを誤解したために起こった。
 純然たる資本主義は,実際に生産活動を行なう人間を脇役に追いやってしまう。これをマルクスは「疎外」と呼んだ。産業革命後の19世紀欧州では,非熟練の工場労働者がまさにそのような境遇に置かれていた。これを見かねて社会主義の思想が発展してゆく。
 1830年代にイギリスやフランスで社会主義思想は生まれた。初期のものはマルクスエンゲルスから「空想的」と批判されたが,本質的に異なっていたわけではない。別に私有財産制の否定を夢見る共産主義も出てきたが,こちらは物欲を不道徳として糾弾する非現実的なユートピア思想だった。
 アメリカの奴隷制は悪名高いが,実はイギリスの工場労働者の方が不遇だったといえなくもない。奴隷は個人の財産であるから大事に使わなくてはならないが,労働者は市場で売り買いされる労働力にすぎない。資本家としては,酷使することが合理的であった。
 しかしやはり労働者の貧窮は社会問題となり,資本家に主役を取って代わられていた旧支配層は,工場規制や公的な扶助を画策する。資本家としては国家の介入は好ましくない。そこで哀れな貧乏人たちに施しをしてやろうというチャリティのしくみが生まれ,広がっていく。慈善・チャリティというと良いイメージしかなかったが,その起源は公権力の介入を防ぐための偽善っぽいとこにあったりするのね…。ともあれ,19世紀半ばには,資本家と労働者の対立関係が成立していくが,労働者も熟練・非熟練・移民など様々で,単一の「労働者階級」ではなかった。
 実際の社会主義運動は,決して単純なイデオロギーに基づいて行なわれてきたものではない。現実は複雑で,様々な紆余曲折があった。普仏戦争後のパリコミューンは,マルクスが絶賛して「神話」が作られた社会主義大義のために自己を犠牲にした英雄たちという神話。パリコミューンは,72日間パリを支配するが,結局は政府軍に殲滅されてしまう。初等教育も受けられなかった庶民たちが,学識エリートたちに乗せられて政府に抵抗し,最後には弾圧され殺されてしまったというのが実相に近い。その上偉大な英雄として長い間宣伝材料にされてしまう…。
 19世紀後半,社会主義者たちは労働運動を指導したり,次第に影響力を増していく。世紀末までには,イギリスで帝国主義社会主義的福祉政策が結びついた国の運営が確立してきた。本来の社会主義は,国境を否定するものだが,人々に受け入れられやすい愛国心の方がより現実を動かす。
 社会民主主義共産主義は,前者が穏健なフェビアン流の改良主義,後者が急進的なマルクス流の革命主義と思って大きな間違いではないようだ。そのマルクス主義的革命は,最初に労働問題が起こったイギリスでも,二月革命やパリコミューンのフランスでもなく,遅れたロシアで起こった。
 日本はどうか。明治維新から間もない日本にも,社会主義思想が流入してきていたが,やはりその理解は薄っぺらだった。社会主義者も政府側も,社会主義の中身を深く知ることもなく,消化不良の舶来思想に振り回されていただけだった。当然のこと,一般の民衆にはもっとチンプンカンプン。
 1922年に日本共産党が発足するが,これも良く事情がわからないので,コミンテルンという権威についておけば良いだろうという考えの産物だったようだ。そしてこういった経緯が敗戦を超えて尾を引き,日本の社会主義勢力は単なる抵抗勢力に堕してしまい,雲散霧消してしまった。
 著者は,日本に社会主義が根づかなかったのは,それを消化するだけの土壌がなかったためだと言う。確かにそうかもしれない。ただ,思想というものはそれが生まれた国の環境と密接不可分だから,これは仕方のないことなんだろう。でも今から誤解を正すことはできるし,それは有意義だと思う。

 前半は戦前から占領期までのジャーナリズム史。後半はその後のジャーナリズム史なのだが,著者はその渦中にいたのでものすごく当事者。熱もこもってる。彼はテレビの人なので,戦後のジャーナリズムをテレビマンの視点から記述。顔が見えるメディアということで,影響力が大きいことを自分が関わった事例をいくつも挙げて縷々述べる。思い入れが相当強いんだろうな。宮澤首相や橋本首相が失脚したのは自分の番組のせいだとしてる。
 かつて軍国少年で,戦後ジャーナリストとなった彼の思想は,占領期までのジャーナリズムのありかたに深く影響を受けている。本書でも明治期からの新聞,その後のラジオ,言論統制の歴史を駆け足で見ていく。明治以降のジャーナリズムの歴史は弾圧の歴史かと思ったら,意外にそうでもない
 日清日露戦争のころ,新聞はこぞって戦争を煽ったが,別にこれは弾圧のせいではなく,その方が売り上げが伸びたから。非戦論の新聞は売り上げが低迷した。最後まで反戦を貫こうとしていた萬朝報もついには戦争賛成へ転向してしまう。読まれるものを書くしかない…。
昭和に入ると政府の統制が強まってく。5・15事件ではまだ各新聞が「言語道断」「未曾有の不祥事」等と論評を加えたが,2・26事件になると陸軍省発表以外は一切掲載禁止とされるに至った。軍の台頭は深刻になっていき,戦中の大本営発表報道に至る。事実は国民に対しては伏せられた。
 そして敗戦。GHQは,国家管理のもとに置かれていた日本のジャーナリズムを,そのまま占領統治に活かした。日本の牙を抜き,民主化を進めるための宣伝機関として有効利用した。軍部を除いて,いろんな組織が温存されて間接統治に使われた。これは効率がいい。
 敗戦の責任をめぐって,各新聞社で内紛も起こった。読売新聞などは,正力社長が戦犯として拘束されると,組合が経営を管理することになった。そんなごたごたはあったが,日本のマスコミは,戦時下と占領下の総括をいまだになしえていない。それが今にも尾を引いている。
 後半はほぼ自分史。早稲田を7年かけて卒業すると,丁度60年安保の年。就職した岩波映画で仕事を干され,安保闘争にのめりこむ。新条約の内容も知らずに,「戦犯の岸がやるんだから改悪に違いない」と批判していた。後で冷静に考えて,「改善」だったことに気付く。
とはいえ当時は本当に世の中「反体制」だったそうだ。今も震災関連で反体制が勢いづいているようだが,それとは較べものにならないくらい。安保改定前夜,岸と佐藤は暴徒に殺されることも覚悟していた,というのはまんざら誇張でもないんだな。
 北朝鮮がこの世の天国だとか,毛沢東文化大革命を絶賛だとか,そういう言説が信憑性をもって受け止められてた時代だった。ところがそのうち十年・二十年が経ち,左翼運動は退潮していった。その大きな原因として,日中・日ソの国交正常化があるというのは盲点。それまでは,共産党とか左翼がソ連や中国との情報のパイプを握っていた。そのパイプが国交回復によって,自民党に奪われることになった。沖縄の返還も「沖縄返せ」という運動のテーマを失うことであり,左翼の影響力は失墜していった。
 その後,角栄リクルート事件等と記述は進み,90年代くらいからは著者自身政局に深く関係するようになっていく。なんだか,首相にひょいと会いに行ったり,側近から相談をうけたり,一介の民間人のはずなのになんだこれは…と言う感じ。やはり第四の権力なんだろうか。
国家への不信,反体制が原点にあったふうな書き出しの本書だったが,いつの間にやら,テレビジャーナリズムの政治に対する大きな影響力という全能感あふれる文章になっていったのはなんだか不思議な感覚。
 最後,あとがきで現在のジャーナリズムに苦言を呈す。コンプライアンスという観念が普及してきて,批判を避ける事なかれ主義の番組作りに陥っている。これでは,ジャーナリズムの存在理由がなくなる。特に原発問題については,事実の追及がないがしろにされている。

ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 (NHKブックス)

ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 (NHKブックス)

 サッチャー小泉純一郎サルコジベルルスコーニ,都市化の進展とともに細分化された「個人」が増え,規制秩序を変革するカリスマ政治家が支持を伸ばす。結構普遍的な現象なのだね。「大衆迎合主義」として嫌われるポピュリズムが,なぜ現代先進国の民主政治に現れるのか。それが不可避の現象であることを論証し,それを踏まえて我々はどう行動すればよいのかを探る。
 日本では,小泉元首相がポピュリスト政治家として記憶に新しい。もっと最近でも,東国原元宮崎県知事,橋下大阪府知事など。少しさかのぼると,中曽根元首相など。55年体制では伝統的「恩顧主義」で政治と社会の関係性が安定的に構築されていたが,これが崩れてきたのが始まり。70年代から本格化した都市化によって,個人主義が普及し,従来の票田が先細りになってきたことによって,ポピュリズムが生まれやすくなってきた。伝統的な利益誘導型の政治でなく,分かりやすい目標を提示し,有権者を動員する政治。政治主導で民営化・政治改革が進められる。
 現代ポピュリズムは,政治に道徳的基準を持ち込む有権者の希望に応えていないとして,従来の政治に異議申し立てを行ない,倒すべき「敵」を可視化して「勧善懲悪」ムードを作り上げる。政策の内容よりレトリックが重視されることも多い。
 ポピュリズムには従来の政治を動かしてきた左右のイデオロギーを超越している面がある。カリスマ的リーダーが求められる点では権威主義的・右派的であるが,「人々」の間の平等を追求するという面では左派的。変幻自在ではあるが,常に何かを否定することでしか成り立たない政治。
 第二章で,ポピュリズムの歴史を種として2つの例に基づいて概観。アメリカのポピュリスト党とアルゼンチンのペロニズム。原因や時代背景は違っても,伝統的社会から工業社会へと移行していく過程でポピュリズムが現れることを見る。移行期の政治的不安定をポピュリズムが埋める
 現代のポピュリズムには,冷戦の終了も大きな原因になっている。共産主義が終焉し,世界が民主主義で埋め尽くされる。冷戦期は社会主義陣営との対立上,自由主義側も理論に磨きをかけなくてはならなかったが,その緊張感が薄れ,政治が迷走。有権者は民主主義が十分機能しないことに苛立つ。
 著者はポピュリズムには多くの副作用があることは確かだとしつつ,しかしそれをうまく扱うことで打開の道があると論じる。参加民主主義,熟議の政治などによってポピュリズムとデモクラシーが和解することも可能

 斜め読み。
 漫画の一部を引用して小林氏を批判してた上杉氏が,著作権法違反で訴えられ,勝訴。論評のための引用と言うことで適法と評価されたので,漫画のカットをふんだんに引用してこの本を作ったそう。
 この二人の裁判事件はいくつかあるみたい。5年ほど前に,職場で民法に関する研修を受けたのだが,その中で議論した10の事例のうちの1つも二人の裁判だった。それは,名誉棄損に関わるもので,上杉氏が小林氏を訴えたもの。上杉氏に漫画のカットを引用された小林氏が,自分の知名度を利用して目立とうとしてる,とか,著作権法違反の引用をしている上杉本は「ドロボー本」だとか言って自分の漫画で批判していた。それが,名誉棄損に該当するという訴え。
 研修での争点は,「ドロボー」,「ドロボー本」との表現が,名誉棄損を構成するかというもの。結局のところ,漫画の引用は適法ということで決着がついたのだが,「ドロボー」表現時点では,決着していなかった。当該表現が事実の摘示といえるか,論評であるかが名誉棄損の成立に関係する。
 最高裁の判断は,確か論評であり名誉棄損は不成立,だったと思う。「ドロボー本」は「私は,この本は著作権法に違反していると考える」という意味だから。上杉氏がドロボーであるという事実を摘示したものではないということ。
 ただ「ドロボードロボー」ってあんまり上品な表現じゃないよね。揶揄しあう論争でなく,互いに敬意をもって応酬するのがキレイで,見てる方もためになるんだと思う。最近の原発等を巡る論争も,穏やかに冷静にやりあって,よりよい道を示してくれたらと思う。分断・反目はよくないよ。