新左翼

(旧ブログより再録[2009年07月22日(Wed)])
「責任という虚構」で見たように,近代の掲げる自立した個人や自由な意思は,フィクションであり,社会をなりたたせるための方便にすぎない。人間は完全ではない。
 不完全なのは個々の人間だけではない。人類の理性一般に信頼を寄せる「合理主義」という考え方にも限界がある。全ての人間に理性がそなわっている。その理性に訴えれば人々は合意に至り,社会が抱える数々の問題が解決されていく。この考えは,啓蒙思想の時代に,中世の軛を打ち破るうえで大きな役割を果たした。しかし,この合理主義は歴史上何度も裏目に出てきた。出だしのフランス革命からして,恐怖政治が現出し,革命家同士の間で多くの血が流れた。そして20世紀には,マルクス主義の暴走によりおびただしい人命が失われる。
 普遍的な理性の存在を前提すると,伝統や習慣は不合理な悪習として斥けられ,頭の中で考えた理想の追求が重視されやすい。すなわち合理主義は左翼思想と結びつきやすい。合理主義者は,自らが信じる正義(=理性に従い努力によって到達した解答)に反する意見を持ち,正義に反する行動をとる者を,間違っていると考える。そうして彼らを批判し,改心を迫る。それが不可能と知ると,彼らを物理的に攻撃する。人類に普遍的な理性の存在を自明と考え,自分の掲げる正義がそれに合致していると思いこんでしまえば,それを理解できない,理解しようともしない輩は,ともに人類の未来を担うに値しない。それどころか,人類の将来にとって有害ですらある。こうして排除・抹殺が正当化される。20世紀にマルクス主義が暴走したのもまさにそれであった。
 その大規模な例は,スターリンによる粛清や,中国の文化大革命カンボジアポルポト派による大虐殺などである。これらの悲劇は外国で起こったが,日本においても,戦後,マルクス主義は大きな影響力をもっていた。それが噴出したのが新左翼運動である。デモ等による合法的な反戦運動,労働運動はもちろん,構内バリケード封鎖など,ある程度の不法行為を伴う運動さえ,一時は大衆の支持を一定程度集めていた。運動衰退期に入ると,一部の学生や元学生が尖鋭化し,革命を夢見て破壊的なテロ活動にのめりこんでいく。
 昨年還暦の父,今年還暦の母は,二人とも大学紛争の主役である全共闘世代にあたる。世界的にスチューデントパワーの爆発した68年に大学に入り,あさま山荘事件のあった72年に卒業している。母は完全なノンポリ一般学生だったようだが,父は同居人がオルグされて帰ってこなくなったり,身近な友人が運動に深く取り込まれていくのを見ていたらしい。父の大学は,工場の多い地域にあり,また東大を落ちて挫折して入ってきた学生が多かったこともあって,学内の雰囲気はかなり反体制的だったようだ。
 新左翼は,1950年代後半に生まれ,共産党社会党,総評などの従来の左翼との対比でそう呼ばれる。左翼がそうであるように,無数の異なる組織,セクトがあり,それらを総称して新左翼と呼ぶ。新左翼誕生のきっかけは,日本共産党の方針変更,スターリン批判であった。まず,その系譜を簡単に確認しておきたい。
 戦前の日本にも,共産主義を含む社会主義は入ってきており,左翼知識人は存在した。しかし,旧憲法の下,1920-30年代に社会主義的言論は苛酷な弾圧を受け,影響力をもつまでには至らなかった。その左翼思想が,敗戦によって解放される。占領軍による民主化の方針のもと,共産党も合法化された。当時の日本共産党はもちろんマルクス主義を掲げ,ソ連に続く共産主義国家を目指す。しかし,それも束の間,冷戦勃発により,占領方針は急遽逆コースへ変更される。レッドパージの中,内紛も手伝って共産党の一部は武装闘争などの非合法活動を敢行する。実現した中国共産革命に倣い,農村を根拠地にゲリラ戦をたたかうとして,非公然武装組織(山村工作隊)を作り,火焔瓶で警察へのテロを行なった。暴力革命を目指すが,国民の支持は離れて第25回総選挙で議席を失い,破防法成立など取り締まりが厳しくなる中,武装闘争は破綻。55年の日本共産党第六回全国協議会において,武闘路線は「極左冒険主義」であったとされ,一転して抛棄される。
 この共産党の180度の方針変更は,党員やシンパに大きな衝撃を与え,党の権威は失墜。さらに翌年,共産主義の本拠ソ連ではフルシチョフによるスターリン批判がなされ,スターリン主義の誤りが暴露される。また同じ56年には,ソ連ハンガリー動乱に対する血の弾圧で国際的に非難を浴びる。これらの出来事をきっかけとして,既成の左翼を批判して生まれた組織,運動が,新左翼であった。50年代後半から80年にかけて,大いに世間を騒がした。60年安保闘争,67年羽田闘争,ベトナム反戦運動,成田空港反対闘争,68-69年大学紛争,70年よど号ハイジャック事件,72年連合赤軍事件,百人以上の死者を出した内ゲバ戦争,大企業を狙った爆弾テロ…。
 新左翼は決して当初から過激だったのではない。ブント全学連に主導された60年安保では,デモ参加者は素手で無帽。ジグザグデモをしたり,シュプレヒコールで気勢をあげるくらいだった。ただ,規模はものすごかった。新左翼運動は世界各地であったが,動員数の点で日本は群を抜いていた。狭い国土に人口がひしめき,安価な鉄道が発達していたため,数十万人という大人数の集結が可能だった。60年6月,日米安保条約改定の自然承認を前に,連日連夜デモ隊は国会を取り囲む。15日,全学連が国会へ突入し,警官隊と衝突。その混乱の中,東大生・樺美智子が圧死する。日本の新左翼運動における最初の殉教者になった。二人目の犠牲者は,これから7年後,三派全学連による羽田闘争においてであった。以来,警察との衝突で死者が出るたびに虐殺抗議集会がもたれ,団結の強化,志気の向上が叫ばれる。しかし日本の警察はものすごく抑制がきいていた。80年代末の天安門事件では,丸腰の市民に人民解放軍が発砲,300人以上が殺されたとされる。日本では権力側は拳銃さえ使わなかった。
 60年安保の後,警察権力に対抗するためデモ隊は武装を始め,角材(ゲバ棒)にヘルメット,面が割れないようサングラスにマスクという典型的ないでたちを確立してゆく。武器は一部で火焔瓶や鉄パイプにエスカレートするが,まだ60年代の新左翼運動は,街頭で多額のカンパが集まるなど,ある程度国民の共感を得ていた。この大衆的基盤も,69年をピークに失われてゆき,同時に少数精鋭による過激な闘争が目立つようになる。中核派革マル派の殺し合いや,連合赤軍での血の粛清など,セクト間,セクト内の内ゲバは,学生運動が急速に衰退する70年代に激化。内ゲバでは武器としてアイスピック,バール,ピッケルまで登場し,凄惨な暴力の応酬が続く。権力へ向けては,爆弾や銃の使用まで正当化されていく。警察官僚夫人爆殺など,権力周辺へのテロも,強大な権力と対決するためには止むを得ないという論理が唱えられ,過激派は狂信者集団へと純化していった。山岳ベースにおいて,連合赤軍は,共産主義化が足りない,という理由で同志に総括を求め,殴打・緊縛し,酷寒の屋外に放置するなどして12名を死に至らしめた。
 あさま山荘に立てこもった連合赤軍幹部,坂口弘の手記を読んだ。主体的に考え,振る舞っているようでいて,実は周囲に流されるまま,破滅に至ってしまった一人の若者の純粋さ,未熟さが悲しい。彼は今,死刑囚として監獄にいる。犯罪事実から死刑はほぼ確実だったが,公判中の75年,死刑を逃れる絶好の機会があった。赤軍派がクアラルンプルの米大使館を襲い,人質解放と交換に同志の奪還を求めたのである。政府は超法規的措置として坂東國男らを解放したが,坂口は奪還を拒んで死刑判決を受けた。当時のテロリストは優遇されていた。人命は地球より重かった。テロとの戦いの今世紀からはとても考えられない。ちなみに,坂東の父親は,あさま山荘陥落時,息子の逮捕を知り自殺している。
 坂口が奪還を拒否したのは,自分たちの武装闘争が間違っていたと自認したからだという。暴力革命を否定し,法廷闘争を選択した坂口の死刑確定から16年が経った。共同被告人だった坂東の公判が中絶したため,彼の処刑はないといわれる(刑訴475条2項但書)が,これは誤解で,死刑執行命令書が整えば執行は合法的に可能である。しかし,上のような事情を考慮すると,彼の死刑執行命令書にサインできる法務大臣は,現れないような気もする。坂東が逃亡している以上,坂口の死刑は,執行しないことも合法なのである。
 合理的思考によって獲得された,マルクス主義イデオロギーは,人類に様々な悲劇をもたらした。近代合理主義の背景には,絶対者としての神の存在を前提にした,キリスト教における告解の習慣―真実に照らした個々人による内省―があったという。フランス革命政府が,旧来の宗教行事に代わって「理性の祭典」や「至高存在の祭典」などを行なったことに象徴されるように,近代化とは,神への信仰が理性への信仰に変わったことにすぎなかったのだ。それは科学技術などの面で一定の成功をおさめたが,内実は何も変わっていない。正義の名のもとに,人間同士が殺し合いをするという愚行は,21世紀の今も続いている。道徳,正義,倫理という価値観は決して普遍的,絶対的なものではない。