7月の読書メモ(刑事)

徹底抗戦

徹底抗戦

 いまさらですが…。
 ライブドア事件で収監されてしまったホリエモンが,二年前に最高裁の判断を控えて書いた本。過熱報道が懐かしい。
 ホリエモンは自分のやりたいことを勘違いされるタチらしくて,いろいろ愚痴っている。あのニッポン放送買収は,テレビ放送にライブドアのURLを貼りつけるためだけにやったそうだ。何か裏の野望があるだろうと勘繰られるのは心外。
 選挙出馬も,小泉改革を支援するために思い立ち,とんとん拍子に進んだそう。けっこう根は純粋なのかもな。宇宙開発にも夢があって,一家言ある。スペースシャトルをこき下ろすくだりは何か小気味良かった。
「あれは、飛行機の形をした宇宙船に憧れたアメリカ国民の、(負の)意識の結晶…当時の技術では実現できないことがわかっていながらも、国民の期待の高まりの前に、完全再利用の宇宙船の建造を目指し…『なんちゃって』再利用型ロケットにしたのがスペースシャトル」p.43
 容疑の詳細についてはこの本を読んでもよくわからなかった。やはり取調や勾留,裁判の体験記が目を引く。人質司法への反感,判検交流への疑問はもっとも。ヤメ検が刑事事件を担当するのを『法曹界の仕事マッチポンプというのは言い得て妙かも(p.164)。
 ホリエモンが一番怒ってたのは,強制捜査のやり方。「事件は私たちが『起こした』のではなく、特捜部が『起こした』」と言ってる。なぜなら,経済事件の強制捜査はたいてい金曜にやるのに,市場に悪影響を起こすことが確実な月曜にした結果,パニック売りで連鎖的株安を引き起こしたから。
 特捜部とやり合った人はみんな口をそろえて言うけど,捜査・逮捕・起訴すべてを行なう検察の権力は恐ろしい。現行制度では,検察が面子を賭けて事件化し起訴に持ち込むと,裁判所も丸め込まれてしまう。この点は去年の検察不祥事もあり,取調の可視化など改善されていくだろうか。

2円で刑務所、5億で執行猶予 (光文社新書)

2円で刑務所、5億で執行猶予 (光文社新書)

 タイトルが俗っぽいけど,内容はしっかりしてた。ポピュリズムに翻弄される刑事政策を憂慮する犯罪学者の著者。特に刑の執行段階に視点を置き,社会がどう犯罪に対応すべきか探る。
ポピュリズムの基本的手法は、わかりやすさと情緒の味付け」(p.12)と著者は言う。確かに。マスコミのアジェンダセッティング力は大きい。そしてなるたけ叩かれないようにとの行政の事なかれ主義が火に油を注ぐ。
 本書は,各章冒頭に常識的で分かりやすい「犯罪神話」を政治家の仮想演説として示し,本文でそれについて犯罪学の見地から論駁する形式。以前読んだ『陰謀論はどこまで真実か』も似たような形式だったな。陰謀論を提示し,それを論駁するというやつ。
「最近凶悪犯罪が増えている」というのはメディアに触れることで作られた印象だったりして,実際にはそんなことはない。もちろん,犯罪統計には暗数というのがあって,人々の犯罪に対する許容度や価値観,警察の取り組みによってその割合が変化する。
 つまり犯罪被害に遭っても,世間体等を気にして届けなければ,警察の統計には表れず,その比率も様々な要因で変化する。しかし,これを無作為抽出による犯罪被害調査で補うこともでき,それによって犯罪被害についてかなり正確な推定を行なうことができるらしい。
 心の問題や,「昔は良かった」的説明は,わかりやすくて説得力があるのだが,統計的な分析によると,実はここ50年ほど一貫して最も人を殺している世代は団塊の世代とその少し上という結果が出ているそうだ。最近の若者を最も憂いている世代が最たる加害者という皮肉。
 小中学生による殺人などが起こると,それが一般的傾向を示す事例かどうかなど一切検討抜きで,ネット社会の闇,モラルの低下とか叫ばれるが,これは悪ポピュリズムエビデンスに基づいた犯罪対策が,副作用を減らし効果を上げるのに不可欠。
「神話」に反して,裁判で真実は明らかにならない。例えば,部活動中に熱中症で中学生が死亡し,顧問が訴えられた事例。体育教師だったというような事情も災いし,有罪判決が下る。この裁判で明らかになったのは,顧問に業務上過失致死の責任を負わすことが可能という「理窟」だけだ。
 本書タイトルの意味は,実刑になるか否かは被害の大小以外の事情が決める,ということ。財力,人脈(身元引受人),知的能力(内省力・表現力)に優れる者は勝ち組で,被害弁済と謝罪をすることで,執行猶予の付いた判決を得られる。起訴前段階でも保釈が受けられる。
 反対に財力も人脈も知的能力ももたない「弱者」は,保釈も執行猶予も受けられず塀の中で長い期間を過ごすことになる。道徳教育でモラル強化などの前に,こういった受刑者たちの現実に目を向けて,考えるべきことがあるだろうと著者は言う。キーワードは社会での居場所。
 刑務所に収容されている人の多くは,「弱者」であるが,その中でもまるで志願してるかのように何度も収監される受刑者がいる。彼らは「刑務所太郎」と呼ばれる,刑務所の外に居場所がない人々である。彼らの多くは,刑務所の中では大変に優等生。
 受刑者の中で,刑務所運営に携わる「経理夫」がいる。経理要員は受刑者中のエリートで,職員から名前で呼ばれ,報奨金も高く,待遇も良い。刑務所から必要とされる仕事にやりがいを見出す。退所したあとは社会に溶け込めないから,また刑務所に舞い戻ってくる。刑務所が居場所になっちゃう。
 刑務所の中には凶悪犯を多数収容するところもあるが,平均的な受刑者というのはこういった弱者なんだろう。そういう現実はなかなか見えなくて,何となくのイメージが社会の中に普及している。こういう状況ではなかなか物事が変わらないのかも。
 日本では死刑制度がかなり支持されているが,犯罪学としては,死刑の犯罪抑止力はほとんど認められていない。刑罰の抑止力を信じる刑罰信仰は,長い歴史で受け継がれてきたもので,30年程度と歴史の浅い多変量解析等の統計手法ぐらいでは,なかなか揺るがない。
 ポピュリズム刑事政策とは,秩序を求める市民グループ,犯罪被害者の権利を追求する活動家やメディアが社会の代弁者となって政策に影響を与え,司法官僚や研究者の意見が尊重されなくなる現象。これをどうやって変えていくのか,やはり知ることから始まるんだろう。