7月の読書メモ(生物・生命)

がんの練習帳 (新潮新書)

がんの練習帳 (新潮新書)

「チーム中川」の中川先生の本。これは読むべし。
 長生きのおかげで,いまや日本人の2人に1人が癌になり,3人に1人が癌で死ぬ。しかるに核家族化と稀薄な信仰心のため,日本人は自分や家族の死について考えることを避ける傾向にある。そして日本は癌検診が普及していない。心の準備不足のところに突然癌の診断が下ったら…。それを避けるために,いくつかの想定事例をもとに,癌についてよく知っておきたい。そんな本。ちなみに昔と違って,今はしっかり告知がなされる。標準治療が確立して,癌が治る病気になったから。
 癌についてはいろいろ俗説があるが,それをまずバッサリ。癌は家系よりも生活習慣の影響が大きい,焦げを食べてもそんなに心配ない,タバコと酒の組合せは最悪。生活習慣を心がけ,癌検診を受けていれば,早期発見で治癒に至るケースが多い。
 ただ,やはり発見が遅れたり,進行の速い癌で,全身に転移してしまうと完治は不可能になる。余命何年,何ヶ月とかいうことになってしまう。その場合は化学療法しかなく,抗癌剤を変えていってどれも効かなくなるともうお手上げ。万策尽きると緩和ケアということになるが,日本はこれも遅れてて,麻薬は怖いとか,痛みは我慢すべしとかいう観念があるために,痛みに苦しみながら弱っていく患者が多い。末期癌の痛みには意味はない。できるだけ苦痛を取り除いて,穏やかな死を迎える方がよい。
 肺癌,乳癌,前立腺癌,直腸癌等の事例をもとに,「練習」が進んでいくが,これがかなり衝撃的。もちろん複数の実例をブレンドした仮想の事例だが,とてもリアリティがある。37歳で乳癌と診断されたキャリアウーマン。ホルモン治療による性欲減退で理解があると思われた恋人とも微妙に…とか。
 あと,65歳の前立腺癌患者の例では,男性機能の喪失を恐れ,何とか温存する治療法を模索する…とか。なんだか涙ぐましい。テレビのドキュメンタリなんかでは,温存って乳癌のについてしかやらなそう。でも現実はこうだし,本人にとってはやっぱり切実なんだろうなとか。
 日本人の癌死で昔もっとも多かったのが,胃癌。そういえば,クイズ番組でよく見てた逸見政孝さん,胃癌だったかな。でも今は前立腺癌,乳癌が多い。感染型の胃癌や子宮頸癌が減っているのは,冷蔵庫や風呂の普及によるところが大きいらしい。日本の癌も感染型から肉食型に欧米化してる。
 実は「癌家系」意識のある日本では,死因を癌でなく「多臓器不全」にしちゃうとかで,癌に関するデータがしっかり取れてない。日本以外では,癌登録が普及してるのに。診断,治療,結果の情報を,患者ごとに個人情報を保護しながら登録,分析するのが癌登録で,将来の治療に役立つ。
 最後の事例は,老夫婦。妻が末期癌,夫が認知症というケースで,妻が自分の死後の夫を案じていろいろ考えるのがせつない。年をとると,死の受容が容易になってくるとはいえ,つらいだろうなぁ。
 死生観を磨く,じゃないけど死について考えるって有意義かもしんない。子供小さいと考えたくないとかいうのはあるんだけど。
 自分が小学生くらいのころ,人って死んじゃうというのが分かって,絶望的に悲しくなっていろいろ考えてしまったことがある。そのとき自分なりに出した答えは,「死んだら生まれる前と同じになるんだ」ってこと。そのころは高々15年前くらいにはこの世にいなかったわけで,なんだかわからないけどそう考えたら不安も和らいだ。15年前には世界はあって,自分はなかった。そういう時が確かにあった。
 今はもうちょっと変わった。自分って別にたいして一貫していない。今の自分は今だけ。十年前の自分,十年後の自分は,今の自分と同じでなくて,時の流れに沿ってつながってはいるけど,違っている。そうすると,どの瞬間をとっても自分って死んでるみたいなものかもなぁなんて思う。
 要するに今を存分に生きるのがいいってことかな。うーん,ちゃんとできてるとは言い難いかも。まあ「自分」とは壮大なフィクションだという話もあるし,気楽に考えてもよさそう。…とか言いつつ,実際に何か起こったら,やっぱり取り乱してしまうのかも知れないが。

「進化論」を書き換える

「進化論」を書き換える

 ネオダーウィニズムを批判する本。ネオダーウィニストが学会を席捲していた80年代から,筆者はそのうさんくささを指摘し続けていたというが,最近の研究で破綻がはっきりしてきてるらしい。
 ただ多くの一般人は,素朴にネオダーウィニズムの考え方を信用してると思う。ネオダーウィニズムとは,ダーウィンの唱えた進化論と,メンデルの遺伝学が結びついてできたパラダイム遺伝子のランダムな突然変異と,自然選択によって生物集団中で遺伝子が変化することが進化だとする。
 遺伝子は生命の設計図であり,親から子へと伝えられる。だから,ネオダーウィニズムの教義によれば,獲得形質は遺伝しない。すなわち,遺伝子以外の原因で現れた形質,例えば筋トレで鍛えた筋肉質な体なんかは子供に遺伝しない。
 ネオダーウィニズムでは,突然変異によってできた環境に有利な個体がより多く生き残り,繁殖することによって,その種の中で環境に有利な形質が広まって進化が起こると考える。しかし,これでは種内の進化は説明できても種を超えるような大進化は説明しにくいという。
 ネオダーウィニストは触れたがらないが,実は元祖ダーウィンは獲得形質の遺伝を肯定していたというのが意外だった。ダーウィンが生れた1809年にラマルクの『動物哲学』が出ているが,ラマルクが用不用と獲得形質の遺伝を主張したのは有名な話。
 生物がよく使う器官を発達させ,そうして獲得された形質が遺伝する。メカニズムは不明だがラマルクはそう考えた。そしてその結果,すべての生物は下等から高等へ一直線に進化していく。環境が同じなら,すべての生物に綺麗な序列が付けられただろうが,環境は様々なので形態は多様化した。
 ダーウィンも獲得形質の遺伝は当然として,それが自然淘汰にかかると考えていた。当時は遺伝子という概念がなかったのだから,無理もないことだろう。遺伝子の正体DNAを手に入れたネオダーウィニズムは,獲得形質の遺伝を異端として激しく批判することになる。
 だが,遺伝子のみが多細胞生物の形質を決定するわけでないことは,良く考えれば当然だ。遺伝子DNAはたんぱく質の合成をコードしており,それは直接個体の形態に結びつかない。この点は,高校以来生物を学んでいて気にかかっていたことだったりする。
 DNAの中でどの部位の遺伝子が働く(発現する)かは,細胞内の環境に依存する。脳細胞も皮膚の細胞も心筋細胞も同一のDNAをもっているが,形態や働きが異なるのは,発現している遺伝子が異なるからだ。
 このことを著者は「DNAと解釈系は二つで一つのフィードバックシステムなのだ」と言っている。解釈系とは細胞質。細胞の状態がDNAの発現様式を変えてしまえば,DNAに変化がなくても形態は変化する。
 遺伝子が作るたんぱく質は形ではない。形は,細胞の中で発現した様々なたんぱく質が,どの部分にどんな濃度で分布するかによって決まる。その時間的変化が発生だ。そうすると,DNAに変異が起きても,発生のプロセスに変更が生じなければ大進化は起きない
 特に有性生殖をする生物では,突然変異が大きいと,それがいかに適応的でも他の個体と生殖不可能なほど形質がかけ離れていれば,子孫を残すことができずに消滅する。細菌などでは突然変異が大きくても,適応的なら残りうる。多剤耐性細菌の出現などは,単為生殖だからこそ可能。
 もちろん多細胞生物にもネオダーウィニズム的プロセスが働かないというわけでなく,漸進的な種内の小進化については関与していると言っていい。だが,高次分類群を構築するような大進化には,ネオダーウィニズムは無縁である。生物の進化はDNAの進化ではない。
 DNAの進化は生物の進化と無関係ではないがパラレルでもない。DNAと形が一致しない例がいろいろと挙げられている。ハクウンボクハナフシアブラムシでは,遺伝的に同一(クローン)でも発生パターンの相違によって,形質の異なる兵隊アブラムシと普通のアブラムシが生まれる。
 ミジンコは,捕食者の存在の有無で,だるま型とヘルメット型に分かれる。これは捕食者の出す匂い物質により誘導されることが分かっているらしい。こういった現象を表現型多型という。
 生物の歴史では,カンブリア紀の初めに「大爆発」が起こって,爆発的な多様化によって現存の動物門がすべて揃ったと考えられている。これ以降新しい門は出現していない。このころの原始的生物だからこそ,このような多様化が可能だったと考えられる。

進化倫理学入門 (光文社新書)

進化倫理学入門 (光文社新書)

 道徳や善悪の起原を進化に求める考え方を平易に解説。メタ倫理学では道徳の基準について客観説,主観説が対立。進化倫理学では要するに「情けは人のためならず」が倫理・道徳の根拠だとする。
 それぞれの生物種において,生存・繁殖にプラスとなる特徴が子孫に受け継がれて広まっていく,というのが進化の基本的仕組み。突然変異は偶然に左右されて起きるが,そのときの環境の下でより有利な形質・行動をもつ個体が多く子孫を残す。この自然淘汰で進化が起きる。
 実はこれってかなり素朴な考え方で,実際には生存に有利不利とは無関係に進化が進むということも確かめられてきているのだけど,この本はその辺の事情は一切抜きで分かりやすさ重視で話が進む。
 少し自省してみると分かるように,人間は,理性よりむしろ感情・感覚の「快」「不快」によって行動する。我々は基本的に自分が生存・繁殖する上で利益になるものに「快」を,不利になるものに「不快」を感じるようにできている。そうなるように進化してきたといえる。
 体のつくりや特徴といった形質だけでなく,行動の特性も,同様に進化してきたんだよ,というところがポイント。人は基本的に「快」をもたらす行動を選択する。逆に「不快」をもたらす痛みや苦痛は,それを避ける行動を喚起する。その行動が生存・繁殖の利益につながるからだ。
 血縁者や異性に愛情をもつのも,その感情に基づく行動(生存のための資源を分配する等)が,自分と遺伝子を共有する者の利益になるがために,獲得された性質。反対に嫌悪や憤怒も,それに基づく忌避,攻撃という行動が,自己に有利であるために,自然選択されてきた感情といえる。
 愛情とか嫉妬に関しては,配偶者防衛というのが面白い。哺乳類では,オスにとって配偶者の子が自分の子である確実な保証がない。子の養育にオスが資源を投入する種では,生まれた子が実は他のオスの子だったという事態を避けるため,配偶者防衛の行動が生じる。人間もこれにあてはまる。
 自分の利益に必ずしも直結しない互恵的利他行動というのも進化してきた。サルの毛づくろいのように,自分でできないことをしてもらって,自分もしてあげる。つまり利他行動の交換。人間では「おもいやり」とか「同情」という感情に基づいてこの種の行動が行なわれる事が多い。
 見知らぬ人に対してなど,必ずしも見返りが期待できない場合にも,「おもいやり」や「同情」は芽生えるが,これは「利他性質の広告」としてやはり自己に有利な行動であると解釈できる。どんな人にも利他的に振る舞うという一般的性質を周囲に知らせて,互恵関係の可能性を広げられる。
 また道徳は,誰の立場からも要請される「利益獲得の方法・セオリー」として社会的に進化してきた規範である。「人を殺してはいけない」という道徳は,殺人が相手側との互恵関係を損ない,周囲一般との互恵関係構築が阻害され,不利益となるために成立する。
 人間は個体が一人一人ばらばらでは生きられず,役割分担して社会に依存せざるを得ないから,道徳とか善悪という概念が,そのようにして進化してきた。そしてさらにその道徳を法が補完して,現代社会は成り立っている。
 なかなか面白い考えだ。本書は人間を中心に書いてあるが,そうすると,動物にも少なくとも快不快の感情はあるような気もしてくる。どんな動物も刺戟に対して何らかの行動をとるわけだが,それは快を追求し不快を回避する行動になっていると考えるのが自然だ。
 その快不快が,嫌悪とか愛憎とか道徳とか正義とかに「進化」していったのは一体どういうわけだろう。というかそもそもそれらの違いって何だろう?どこにもはっきりした線は引けないような気もする。本書は「入門」ということだが,進化倫理学ではもっと深い研究がされているのだろうか。
 進化論の分野では,本書の前提するような超素朴な進化論はもちろん,20世紀後半に主流だったネオダーウィニズムも克服されつつあるようだが,そのあたりと進化倫理学の関係も興味があるなあ。巻末に関連書の紹介があったから,日本語のを少し読んでみようかな。