9月の読書メモ(歴史)

ドイツを変えた六八年運動 (ドイツ現代史)

ドイツを変えた六八年運動 (ドイツ現代史)

 菅元総理をはじめ,日本の政治家に学生運動出身者は多いらしいが,外国のことはほとんど知らなかった。ドイツで90年代半ば以降躍進し,一時連立政権にも参加した「緑の党。その母体は学生運動らしい。
 1968年は世界的に学生運動が激化した年だった。以前,日本の新左翼について読み漁って,いろいろ思うところがあったが,ドイツの学生運動は,ナチスの犯罪について親の世代を糾弾することから始まったそうだ。
 初めは大学で,60年代後半からは個々の家庭内でも,ナチスを止められなかった親たちを批判する学生。彼らは権威主義的教育を否定し,政治闘争のための共同体「コミューン」をつくるなどして,権力を挑発する活動を行なう。
 ほかにも,共同託児所をカンパで運営するなどの活動も。男性活動家も保育,料理,掃除に参加したというから,これってイクメンのはしりかな?しつけを重視するブルジョア的教育」を否定,壁への落書や火遊びを許すなど自由に遊ばせたそうだが,子供の「主体性」を重視しすぎるのって微妙だね…。そのわりに,政治教育を注入したり,反戦デモへの参加も押しつけたりしてるし。左翼思想ってよくわからん。でも時代の空気がそんなんだったのかな。
 ともあれ,こうした運動が最も盛り上がったのが68年。最大の課題だった非常事態法阻止が失敗に終ると,68年運動は分裂・解体へ向かう。一部は過激化して暴力主義へ走って自滅したり(赤軍派),一部は試行錯誤を重ねて様々な「新しい社会運動」を掲げて運動の継続を目指したりした。反原発環境保護・平和・フェミニズムなど。
 そして80年代以降,「68年世代」は政党組織「緑の党」を結成,議会活動を通して反核・男女同権・エコ・市民参加といった「緑のテーマ」の国民への浸透を模索する。そして時代の流れによる権威主義の衰退も手伝って,彼らの価値観は次第に定着してゆく。
 緑の党は,結成当初こそ急進性が見られたものの,80年代後半には中心勢力が現実派へと移り,既成政党化が進展していく。東ドイツの活動家との連帯も試みられ,ある程度の影響を与えあった。社会主義体制の東ドイツに好意的でドイツ統一に否定的だったため,東西統一後は勢いを失う。
 さらに90年代を通じて,緑の党の独自性はどんどん失われてしまう。かつて専売特許だった「緑のテーマ」が一般化し,政敵にも広く受け入れられるようになったため。それでも98年には初めてドイツ社会民主党 (SPD) との連立政権(赤緑連合)に加わる。
 政権の座についてから,「68年運動」に関する論争が高まる。どんな貢献があったのか,負の側面は。これはなかなかうらやましい。日本ではあれほど盛り上がった新左翼運動が,その功罪についてきちんと議論され,総括されていないような気がする。

勲章 知られざる素顔 (岩波新書)

勲章 知られざる素顔 (岩波新書)

 日本の勲章制度についてよくまとまった本。毎年春秋,国家に貢献した人たちが叙勲される(毎年8000人も!)が,この制度にはいろんな紆余曲折があり,批判などもある。辞退者も少なくない。
 勲章と類似の制度に褒章もあるが,本書は勲章を扱う。世界の勲章は十字軍に始まるそうだが,日本の勲章の嚆矢が「薩摩琉球国勲章」というのは意外。幕末,パリ万博に先だって,薩摩藩が独自の外交を効果的にすすめるべく作って欧州の要人に配ったらしいが,2個しか現存していないそう。
 そもそも勲章は,所属する騎士団をあらわすバッジみたいなものが始まりで,宗教的権威をまとって名誉の象徴になっていく。日本が近代化するころには,欧米ではもう定着していて,外交儀礼としてやりとりされることも普通だった。この点,薩摩藩は幕府よりも先見の明があったといえる。
 維新後,日本でも定着した勲章は大変名誉とされ,軍人や公務員は受勲のために職務に励んだ。ただ,勲章制度には戦前から批判もあった。民間人が叙勲の対象になりにくい,階級による差別がはっきりしている,同じ階級でも在任が長いほど高位の勲章がもらえるので,人事の流動性を阻害するなどだ。
 芥川龍之介など文学者には勲章を批判する者や,森鴎外など辞退する者も。戦後も大江健三郎は叙勲を拒否している。ノーベル賞レジオンドヌール勲章はうけているのだが。物書きは時には国家を批判することも必要だから,受けられないという論理はわかる。
 戦後,長い間「生存者叙勲」は停止されていた。それが復活したのが昭和39年。真っ先に受勲した吉田茂は最上位の「大勲位菊花大綬章」を受けている。社会党などは民主主義の理念にもとるとして勲章制度を受け入れず,党員には受勲しないよう求めるが,やはり国家へ尽くした者を何らかの形で顕彰することは,必要不可欠のことなんだろう。本書は岩波新書だけど,著者もそういう見解だ。
 生存者叙勲が復活したあと,平成15年に大きな制度改革がある。文化勲章以外の,旭日,瑞宝,宝冠には勲○等と数字で順位がついていたが,これが廃止された。数字で順番があからさまにわかるのはどうも,ということで,名前が変わっただけといえばそうかもしれない。旭日大綬章,重光章,中綬章,小綬章,双光章,単光章,のように,数字はなくなったが,大中小,双単みたいに順番はわかる。ちなみに旭日章は政治家や民間,瑞宝章は公務員への授賞。
 勲章には今でもどのような地位にあったらどの章,というのが厳然としてある。これをもってけしからんとする考えもあるが,こういった秩序がないと,栄典の永続性が損なわれ,制度として瓦解する。勲章はだれも欲しがらなくなったら意義を失うのだが,今後,どういう風になっていくだろう。
 戦前は金鵄勲章という軍功に対する勲章があり,軍国少年の憧れだったものだが,戦後廃止された。これと同様に現行の勲章も存在意義が失われていく可能性も。個人的には,言語や教育に象徴されるように国家というものは現代にあっても大多数の人にとって生きるのに不可欠なわけで,否と思うが。
 興味深かったのは,「ルメイ問題」。カーティス・ルメイ将軍といえば,東京大空襲をはじめとする無差別爆撃の指揮官として名を知られているが,彼は戦後,勲一等旭日大綬章を贈られている。航空自衛隊の育成等が功績とされたのだが,いつまでも批判がなくならないそうだ。
 その他,本来売買を想定していない勲章を売り買いする市場の存在や,大阪造幣局による製造の様子など,勲章に関するさまざまな話題を網羅している。とても面白い本だった。著者の『シベリア抑留』も確か以前読んで(不毛地帯関連で),良かった覚えがある。

 手軽に読めるローマ通史。建国神話から崩壊まで。共和制後期から最盛期,五賢帝時代までが中心。後世の為政者の憧れとなったローマの栄枯盛衰をたどる。分量も文体も塩野七生よりずっと読みやすい。
 伝説ではトロイアゆかりとされる建国から共和制の前半までは資料が少ないが,共和制後期からは信頼性ある情報が多くなる。ローマ共和政の特徴は,公職者の「同僚制」と「任期制」コンスルはじめ同じ権力をもつ役職を複数配置し,任期は原則1年。独裁者の出現を阻む工夫がされていた。
 その共和制下でイタリアを統一。西ローマ崩壊以降,18世紀の再統一まで千年以上も分裂していたイタリアを,紀元前に統一してたのだからたいしたものだ。その後,数次のポエニ戦争マケドニア戦争を経て,地中海周辺に帝国支配を広げていく。ハンニバルスキピオなど胸躍るエピソードも。
 ローマはしょっちゅう戦争している。これはなぜかについて考察してる。ローマ市民権はかなり開放されていて移民が多く,増加する市民に充分な土地を与えるために戦争が不可欠だった。戦勝は指導者の手柄にもなる。それが優れた戦術と同盟システムを培い,「世界の警察」の地位を固めていった。
 そのローマが,前二世紀終りから内乱の一世紀に突入。護民官グラッスス兄弟の粛正を端緒に,政争を暗殺で解決するようになる。軍事的苦境を兵制改革で乗り切ったマリウスと,その政敵スッラの抗争。その後の第一次,第二次三頭政治
 カエサルポンペイウスの物語はとても有名。後世いろいろな脚色もされていて人気がある。海賊征伐で力をつけたポンペイウスガリア遠征で名声を得たカエサルルビコン河の決断を経て両者が激突する。クレオパトラも加わって,結局はカエサルが勝利。しかし間もなく暗殺されてしまう。
 続いてオクタヴィアヌスアントニウスの争い。クレオパトラと結んだアントニウスローマ市民の反感を買ったこともあって,家局アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスアントニウスを破る。二人は自殺。共和制は終焉し,ここから元首政が始まるとされる。
 共和制末期の内乱は,それ以前に近隣の大国に勝利したローマ軍が,かなりの遠征を余儀なくされるようになり,軍隊の性格が変わっていったことが一因と見ている。ローマそのものでなく,司令官の旗の下で戦う集団に変質していったために,戦争でローマをまとめることができなくなっていた。
 アウグストゥスとなったオクタヴィアヌスは,常備軍を設置。大半を帝国の境界に配備する。これによって戦争はローマ市民に無縁のものとなり,帝国は安定した。五賢帝以前にカリグラ,ネロなど暴君も出たが,体制が揺らぐこともなかった。
 ネルヴァ,トラヤヌスハドリアヌスアントニヌス・ピウスマルクス・アウレリウス五賢帝時代を過ぎると,ローマは衰退に向かう。セヴェルス朝,軍人皇帝時代。四世紀末には東西に分裂し,西は五世紀にゲルマン人傭兵隊長に滅ぼされ,東は十五世紀にオスマン帝国により滅亡。
 帝国そのものは消滅しても,理念は長く残るカール大帝もナポレオンも皇帝式の戴冠をしたし,神聖ローマ帝国ドイツ帝国など後継を辞任する国も現れた。近代法もローマ法を下敷きに作られているし,EUの理念もローマ帝国と共通する面がある。西洋の伝統の礎がローマ。何かロマンチック。
 しかしこの本,数字の表記で気になる点が。「捕虜は千八〇〇であった」(p.83)「三千五〇〇名という大きな損害」(p.84)…これってないよね…。

時刻表タイムトラベル (ちくま新書)

時刻表タイムトラベル (ちくま新書)

 初老のおじちゃんが,昔の時刻表を見ながら過去の鉄道旅行に思いをはせるという趣向。昭和の夜行列車,食堂車は記憶の中らしいが,さらに明治までさかのぼったりする。戦前は「時刻表」じゃなくて「時間表」。
 大正末の「鉄道営業御案内」(原文正字体)は面白い。乗車のマナー,具体的注意を列挙している。現代若者の乗車マナーの方がまともなのかも。「一三、裾を捲つて腿を出したり、肌襦袢一枚になつたり、婦人が細紐一つでゐたりすることはやめて戴きたい。」 「細紐」ってなんだろと思ったが,ちゃんと帯をしてねってことらしい。
 荷物車,荷物列車の話。宅配便のないころは,国鉄の駅に荷物を持って行って,遠隔地に送ってもらってたらしい。経験ないけど,年配者にはノスタルジーみたい。荷物車は通常の乗客用列車に連結された車両,荷物列車は荷物専用の列車。
 新聞輸送に夜行急行列車が大活躍していた。都市圏で刷られた新聞が,地方までくまなく届けられる。夜行急行が夜中も頻繁に停車していたのはそのため。新聞が主で旅客が従になるような路線も多かった。
 日本の鉄道黎明期は,官営オンリーで拡大したのではなく,むしろ私鉄が主役だった。明治政府は財政難。華族の家禄や家財を資金源にすべく,政府は手厚い保護で鉄道建設を分担させた。そのはしりが日本鉄道会社。上野ー前橋,大宮ー青森はこれでできた。
 昭和戦前の時間表は,国際的。植民地だった台湾,朝鮮の鉄道はもちろん,別の国だった満洲中華民国,シベリア,欧州の鉄道も掲載する。新橋で,ロンドンまでの切符を買うこともできたという。敗戦後は,ちんまりと国内限定。著者は寂しがっている。
 昭和30-40年代は分割併合列車が全盛期だったらしい。それ以前は本線と支線は別系統という考えが根深かったが,利便性を重視気動車の技術進歩もそれを可能にした。しかし,民営化によって合理化が迫られ,平成にはいってからは激減。ここでも著者は寂しがる。
 最後の章は6年前に筆者がルポした「夜行列車を乗り継いで日本縦断の旅」。自分でも言ってるがアホな雑誌企画だ。南宮崎から「彗星」「日本海3号」「はまなす」「利尻」を乗り継いで,四連泊で稚内まで。アホだ…。東京から南宮崎までも「富士」を使って行ったというから,実は五連泊。
 この5つの夜行列車のうち,「はまなす」を除く4つが今はないという。著者はやはり寂しがっている。非効率,無駄なものをなくしていくのは,合理的なんだろうけどファンには腑に落ちないようだ。ちなみに同行のカメラマンは,取材終了後,「北斗星」で帰京したというから,六連泊だそう。
 学生時代,列車で北海道にいったときに夜行列車「はくつる」に乗った。この列車も今はないようだ。あのときは確か二年続けて行って,翌年は「はまなす」に乗ったのも覚えている。カーペット車に雑魚寝したっけ。懐かしいな。