エーテルの放逐

(旧ブログより再録[2008年08月22日(Fri)])
 電磁気現象を説明するマクスウェル方程式は,相対性理論の40年も前から知られていた。その間に,力学についての相対性原理を電磁気学まで拡張することも,ごく自然に推論できたのではないか?アインシュタイン以外の物理学者はいったい何をしていたのだろう?前回の説明を読むとこんな疑問が湧くかも知れない。無理もない,あれはかなりあとづけの説明であった。
 周知のように,当時,電磁気現象を担う媒体として,エーテルが想定されていた。この媒質は17世紀,光の波動説を唱えたホイヘンスが持ち出したものである。宇宙は至る所エーテルで満たされていて,光はそのエーテルを介して伝わる。音が空気の振動であるのと同様,光はエーテルの振動であるというわけだ。宇宙空間が真空といってもそこを通って星々の光が我々に届く以上,そこには常にエーテルがある。媒質がないのに伝わる波など到底考えられない。
 とはいえ,エーテルは波を伝える普通の媒質とは異なる。全然物質っぽくないのだ。なにしろ,天体がエーテル中を運行しているのに,エーテルは静止していてその影響を受けないように見える。つまり,エーテルと物質の間には相互作用が観察されない。奇妙である。19世紀になると,光は電磁気現象の一つである電磁波であることがわかった。そのため,エーテルの役割は,クーロン力ローレンツ力といった電磁力の媒介にまで拡大される。ますます不思議だ。さらに光が横波であることもわかったが,そうするとエーテルは流体でなく固体的なものと考えねばならない。そんなものの中をなぜ天体は動けるのだろう?エーテルは,どんどん不可解なものになっていく。
 エーテルの正体は摩訶不思議であったが,ともかく電磁気現象はエーテルの力学的ふるまいによって説明されていた。空気の振動である音が,媒質である空気の力学的ふるまいで説明できることのアナロジーである。音と空気の力学的関係は簡単なものである。電磁気とエーテルの関係も,それより多少複雑な程度で,本質的には同じだろう。そう確信されていた。幸い,マクスウェルによって厳密で体系的な法則が得られ,これぞエーテルの力学的性質を記述する方程式だと受け止められたのである。宇宙を満たすエーテルに対して静止していれば,マクスウェル方程式が精確に成立つ。当然,エーテルに対して運動する観測者から見ると,マクスウェル方程式は成立たない。エーテルは,宇宙の重心に対して静止しているはずだ。絶対空間の復活である。
 この背景に,物理の基礎は力学であるというドグマがあった。現に,それまで物理現象は,ことごとく力学的に説明されてきた。謎めいていた熱学さえ,分子運動論,統計力学という形で力学に還元できた。電磁気学も同様で,将来エーテルの力学的本質も見出されるであろう,という信念があった。ガリレイ相対性が成立つ力学法則と,マクスウェル方程式は,この点で一線を劃していた。力学と電磁気学は全然対等ではないのである。マクスウェルもすごいが,ニュートンはやはり偉大である。力学こそ真の物理学であり,相対性原理を拡張する必要はさらさらない。
 もちろん,次第に緻密になる光速の観測によって,エーテル説が破綻しかかっていたことも事実である。はじめエーテルはうまくいっていた。17世紀から,光は波か?粒子か?という論争があったが,そのうち波動説でしか説明できない現象が多く見つかる。よく知られているのは回折や干渉だが,光速が光源の運動によらないこともその一つである。数ある天体の中には,互いの周りをぐるぐる回る二つの恒星の組(連星)が存在する。光が粒子であるとすると,ある瞬間に地球に近づきつつある方の星からの光が,他方より速くなるはずである。連星は非常に遠くにあるから,この差は十分観測にかかる。しかし,光速の差はなかった。波動説によれば,光速とは媒質であるエーテルに対する光の速さであるから,光源の運動に依存しないのは当然である。これは音でも同じで,音速は音源の運動に依存しない。温度・圧力などの条件が同じなら,媒体である空気に対する音の速度は一定である。ここまでは,まあ問題ない。
 19世紀も後半になると,難しかった地上での光速の測定が可能になり,エーテル説に綻びが見えてくる。空気中を伝わる音の観測者に対する速さは,風があって空気が動くと変化する。風速が加算され,風上に向かう音の速さは遅く,風下に向かう音の速さは速くなる。これと同様に,地上での観測はエーテルの風の影響を受け,光速が変化するはずである。しかし,前回も述べたように,このような光速の変化はどうしても検出できない。そこで,エーテルは地球に引きずられているという説が登場する。そもそもエーテルが運動する天体の影響を全く受けないという前提は無理があったのだ。エーテルは全体としては静止していても,天体の運動で一部が引きずられるのだ。直感的に分かりやすい説ではあるが,この説には光行差を説明できないという致命的欠陥があった。公転により,地球の瞬間的な運動方向は,半年で正反対になる。この半年の間に,同一の星の見える方向が最大20秒もずれる。これは,垂直に降る雨が,走行する電車に斜めに当たるのと同様の光行差という現象である。エーテル引きずり説によると,この光行差が0になるはずなのだが,光行差は実際に観測される。光速の差は検出できないのに,光行差は厳然と存在する。エーテル説は,もはや進退谷まった。
 ローレンツフィッツジェラルドによる収縮仮説(エーテルの運動方向に全てが縮む)は,破綻を回避する苦肉の策であった。確かに数学的にはつじつまがあう。しかも,特殊相対性理論からも同様の現象が導かれるから,本当にもう一歩であった。しかし彼らにはエーテルを追放することはできなかった。ポアンカレも,時間についての深い考察に至っていたが,及ばなかった。結局,26歳のアインシュタインエーテルを物理学から放逐し,かわりに光速度不変を原理として採用して突破口を開く。光という波は,伝播するのに媒質を必要としないのだ。もちろん,先行研究に大いに助けられてのことであり,完全に独力でなし得た仕事ではない。しかし,直感的に疑問の余地のないガリレイ変換を否定し,経験的に無謬のニュートン力学を否定する結果を厭わずに,それをやってのけたアインシュタインはやはり天才だ。彼が若いアマチュア研究者だったことも何か象徴的である。